震災に想いを寄せて~消防点検・訓練~
投稿が少し遅れましたが、1月17日に避難場所や消防設備の位置確認など点検と訓練を行いました。
1月の寒い朝を想うと、あの日の暗く寒い朝を思い出します。阪神・淡路大震災は、1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震により発生した災害です。
最初に見たのはテレビのニュース、足の上に落ちてきた箱を衣装ダンスの上に戻しながら、ぼんやり見てました。大阪のスタジオや京都の街角が映っていて、大したことないのかと思いましたが、明るくなるにつれ、黒煙が上がって、高速道路の横たわる神戸市内が上空から写されました。
翌朝には徳島を出発し、所有物件の確認に向かいました。車で三宮駅周辺にたどり着いたのは午後2時を過ぎた頃でした。どのビルも1~2階はあまり見なかった様に思います。行きに通った時にはかろうじて立っていたビルも、帰りには倒壊していたり、みるみるうちに様子が変わっていきました。確認する建物も外から見る限りでは2階建の姿をとどめていましたが、当然の如く建物内は階段が崩れ落ち、窓やドアが歪んで割れていました。幸い死傷者はいなかったものの、その後解体するまでの期間は、周辺への被害やご迷惑にならないように細心の注意をはらって管理していました。帰り道は少し西に向かうと未だまだ黒煙が出ていて、道はとても車の走れる状態ではなかったと記憶しています。すんなり辿り着いたと思いましたが、帰り道はかなり危険を感じました。行きはよいよい、帰りは怖い・・・どんどん震災の悲惨さを身に染みていくようになりました。
その3日後再度入りました神戸では、教会へ立ち寄りました。道を挟んだ向かい側に小学校があり、自衛隊による飲料水が提供されていました。「何か困っている物はないでしょうか」と質問したら、「供給されるのがカップ麵ばかりで辛い」との事。私は自分のために持っていた塩と海苔の「おにぎり」を恥ずかしながら食べてもらいました。何日かぶりのお米/ご飯を、大変喜んでくださり、子どもたちは幾人かで一つのおにぎりを分け合っていたのが思い出されます。もっと持ってくれば良かったと後悔しました。
1週間後からは震源地である淡路島一宮へ災害ボランティアとして入りました。1週間の避難所生活では瓦の片づけから支援物資の供給(主に衣類)、食事の調理を担当しました。ご家族や独居高齢者の方が多く、数十人が入れ替わりながら避難されておりました。「私は大丈夫だから他の方に・・・」と寒い中にも関わらず、支援の肌着や衣類を辞退される方も多くおられ、優しいお人柄に触れ、心顕れる時間を過ごさせていただきました。
あんなに酷かった線路も、3か月もしたころにはすっかり走っていました。親戚の運営する海運会社では、神戸港から大阪港、関空などへフェリーを運航し、陸路では運べない時も避難されている皆さんに移動と物資の提供を続けていました。本当に大変な状況だったと思います。そのような中でも社会的使命をもって様々な貢献活動を続けた会社を見習い、その後の被災地支援やボランティア活動を続けています。
これからも変わることなく、地域のために役に立つ企業でありたいと願います。
有限会社ハイプラ 松崎久美子